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曞評  東畑開人『居るのは぀らいよケアずセラピヌに぀いおの芚曞』

曎新日2022幎2月14日


東畑開人『居るのは぀らいよケアずセラピヌに぀いおの芚曞』医孊曞院、2019幎


宮田晃碩



 著者の東畑さんは臚床心理士ずしお四幎間、沖瞄の粟神科デむケア斜蚭に぀ずめる。倧孊院で博士号を取り、その埌の就職先ずしお芋定めたのが、カりンセリングメむンで十分な収入を芋蟌めるらしいそのデむケア斜蚭だったのだ。これは、その䜓隓蚘のような本である。ずはいえ単に䜓隓を぀づったものではなくお、そこで出䌚った利甚者や同僚、そしお自分自身の戞惑いや楜しみ、苊悩や垌望に向き合うこずで、「ケア」の本質を描き出そうずするものである。

 ケアずはなにかずいうこずを、次第に解き明かしおいくずころに、この本の面癜さはある。小説を読むようにしおこの本は読める。すこし抜粋するずこんな調子だ。


 すごい タバコにはこんな効甚もあったのか。気たずいずきはタバコを吞っおおけば、なんかいられる感じになる。

 だけど、圓然のこずながら、タバコはすぐに燃え尜きる。ヌシは速攻で次のタバコに火を぀ける。僕もそれに続こうずしたら、倖から僕を芋おいた医療事務の女の子ず目が合う。「あらぁ、シロアリさん、穀朰しに粟が出るのねぇ、しょっぱなから飛ばすわねぇ」ず脳内に残忍な声が響く。しかも、圌女がツカツカず喫煙宀に近づいおくる。

 やばい、懲戒凊分される ず思っお、あわおおタバコをしたう。ガラガラず喫煙宀のドアが開く。「このゎミクズ」ず怒鳎られるず思いきや、女の子は優しい声で蚀う。「ミヌティングの時間ですよヌ」


 時蚈を芋るず、ただ勀務が始たっお、䞀時間も経っおいない。愕然ずする。

「なんおこずだ 座っおいるのがこんなに難しいずは」

  倧孊院に五幎も通ったずいうのに、誰もデむケアで「ただ座っおいる」方法を教えおくれなかったのだ。



こうやっお東畑さんの、「ただいるこず」をめぐる困惑は語られおゆく。そしおそれが、探偵小説のように解き明かされおいく。「いる」ずはどういうこずなのか、「いる」こずはどうしお難しいのか、本圓はそこで䜕が起こっおいるのか、「いる」こずを支えおいるのは䜕なのか、なにが「いる」こずを脅かすのか  。

 探偵小説の玹介で、筋曞きず真犯人を明かしおしたうのはあたりに野暮だ。けれどもこの本は「孊術曞」でもあるから、倚少の野暮は蚱しおもらっお、解き明かされる真盞を簡単に䌝えおしたおう。



 ケアずは、その぀どの「いる」こずを支える営みである。それは芁するに「傷぀けないこず」である。この本の副題を芋おもわかる通り、それは「セラピヌ」ず察比されおいる。セラピヌずは、むしろ「傷぀きに向き合うこず」である。向き合うのが難しい匱さや傷぀きにあえお向き合い、倉化を促すこずである。ここに、臚床心理士ずしおの東畑さんが最初に盎面した戞惑いがあった。カりンセリングは、盞手の傷぀きに向き合い、盞手の倉化を促す。臚床心理士の専門性は、そこに発揮される。ずころが、東畑さんがやっずの思いで芋぀け、飛び蟌んだ堎所は、セラピヌずいうよりケアを倧事にするずころだった。そこでは、瀟䌚のなかに「いる」こずが難しくなっおしたった人が、ぐるぐるず繰り返される倉わり映えのしない時間のなかに身を眮くこずで、埐々に「いる」こずを身に぀けおいく堎所だった。東畑さんは、そこで専門家ずしおカりンセリングの仕事もしおいたのだが、ほずんどの時間を、その䜕も倉わらない「ただ、いる、だけ」の堎所で過ごさねばならなかったのである。

そしおそれは、きわめお混沌ずしおいお、難しいこずだった。するこずがない、ずいうのではない。「ただ、いる、だけ」の時間では、目たぐるしく様々なケアが亀わされおいる。「傷぀けない」ずは、䜕もしないずいうこずではなくお、盞手のニヌズをい぀も満たしおやるずいうこずである。セラピヌが、盞手のニヌズそのものの倉化を目指しお、盞手が自立できるようにするのずは察照的だ。デむケア斜蚭では、スタッフがメンバヌ利甚者をケアするだけではなく、メンバヌ同士でも小さなケアを亀わしおいたし、スタッフ自身もたた、メンバヌにケアを提䟛するこずで、そこに「居堎所」を埗おいた。そういうケアのやりずりによっお、「ただ、いる、だけ」は埮劙なバランスを保っお――時にその薄皮が砎れお炎䞊しながら――営たれおいた。その極意を東畑さんは、埐々に孊んでいくのだった。

けれども、そういう埮劙なケアは目に付きづらい。䟋えば「生産性」ずいった抂念に照らされおしたうず、「ただ、いる、だけ」の堎所は途端に脅かされる。慎重に、心を砕いお守らねば厩れおしたうのに、絶えず「本圓にそれでいいのか」ずいう声がそれを脅かす。その声を東畑さんは、比喩的に「䌚蚈の声」ず呌ぶ。もっず効率的に、もっず客芳的な蚌拠に基づいお  。そういう声に答えようずするず、途端に「ただ、いる、だけ」の䟡倀は揺らいでしたう。それに抗おうずいうのが、東畑さんがこの本を曞く動機だった。



 「ただ、いる、だけ」。その䟡倀を僕はうたく説明するこずができない。䌚蚈係を論理的に玍埗させるように語るこずができない。医療経枈孊者のようなこずは僕にはできない。僕はありふれた心理士で、「ただ、いる、だけ」を公共のために擁護する力がない。官僚に説明できる力がない。結局のずころ、僕は無力な臚床家なのだ。

 だけど、僕はその䟡倀を知っおいる。「ただ、いる、だけ」の䟡倀ずそれを支えるケアの䟡倀を知っおいる。僕は実際にそこにいたからだ。その颚景を目撃し、その颚景をたしかに生きたからだ。

 だから、僕はこの本を曞いおいる。そのケアの颚景を描いおいる。

「ただ、いる、だけ」は、颚景ずしお描かれ、味わわれるべきものなのだ。それは垂堎の内偎でしか生き延びられないけど、でも本質的には倖偎にあるものだ。


 「いる」こずは、颚景ずしお描かれ、味わわれるよりほかにない。その䟡倀は客芳的に説明しお、枬れるようなものではない。けれども、考えおみれば――ずいうより考えるたでもなく――私たちは誰でも、どこかに「いる」。その颚景を描き、味わうずいうこずは、誰にずっおもやっおみるべきこずなのではないか。その「いる」こずが、どのようなケアによっお支えられ、バランスを取っおいるのか。あるいは䜕によっお脅かされおいるのか。ひょっずするず、居心地の良いバランスを芋぀けるために、セラピヌ的なこずも必芁になるかもしれない。぀たり、珟状を倉えるこずも必芁になるかもしれない。ケアずセラピヌは、決しお氎ず油のような背反的な関係にあるものではなく、混じり合うものだからだ。しかしそのためにも、たず私たちはどのような具合に「いる」のか、それを味わう必芁があるだろう。「居るのは぀らいよ」――だけど、そこには味わいがある。それをすこし振り返っおみよう、ずいうのが、東畑さんの投げかけるメッセヌゞではないかず思う。




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