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執筆者の写真ラボラトリ文鳥

本の紹介 津村マミ『コタローは1人暮らし』

更新日:2022年2月14日


 大人というのは、ちいさな子どもがうやうやしくお辞儀をしたり、律儀に振る舞ったりするのが好きらしい。テレビに映る子役や子どもタレントはそうした姿で人気を得る。まだわずかな年数しか生きていないはずなのに、この子はどれだけの社会経験を積んできたのだろう、代わりに何を犠牲にしてきたのだろうと、ついつい、そんな想像をしてしまう。子どものかわいらしさと不憫さは、表裏一体なのかもしれない。



 コタローもそんな想像を掻き立てられる子どもだ。漫画『コタローは1人暮らし』は、コタローが大人たちに気づきと癒やしをもたらす話である。小動物のような、あるいはぬいぐるみのような二頭身のフォルム、「わらわ」とか「くるしゅうない」、「~ではないか」という不似合いな口調が、子どもならではの愛らしさを伝えている一方で、その表情の乏しさはコタローが変わった子どもであるという物語上の設定を端的に表している(そして、漫画特有の、フィクショナルな「キャラ」であることを際立たせてもいる)。物語は、かわいげで不思議な4歳児が、古いアパートにひとりで引っ越してくるところから始まる。4歳なのに、コタローは一通り家事をこなすことができて、引っ越しの際も挨拶回りを忘れない。すでに立派な社会性を身につけているのだ。


 子どもらしくない点は、そういった生活力だけでなく精神性からも窺える。コタローは仙人のように達観していて、矛盾や見栄、エゴイズムといった大人の本心を見抜く。同じアパートに暮らす中年男性の田丸が、ある日、別居中の息子にプレゼントを渡しそびれて帰ってくる。田丸はそれを代わりにコタローに贈ることで満足しようとするが、コタローはそれを「ウソのもの」だと言って受け取らない(第1巻「6日目★嘘か誠か?」)。また、コタローは、幼稚園の先生が疲れを隠して、作り笑顔で働いているのを見てとる。そうしたことが、コタローには「分かってしまうのだ」(第2巻「30日目★演技派コタロー」)。


 ウソを見抜くだけではない。コタローは悩める女性の心に寄り添うこともある。恋人に傷つけられて泣き明かした目を見て、「たくさん泣いたあとは、はやく冷やしたほうがよい」、「…わらわは平気ぞ。泣いても、わらわはおぬしのことを嫌ったりせぬ。泣くのはだめではない」と声をかけ、子育てに頑張りすぎていっぱいいっぱいになっている主婦に向かって、「そんなにがんばらずともレオママどのは、良いママである」と、その存在をただただ肯定する。


 コタローは、大人の事情の複雑さそのものを捉え、光を当てる。その深い洞察と的確な物言いに、読者はドキッとさせられたりホロッとさせられたりすることになるのだ。この鋭さは、子どもならではの純粋さによるものではない。同じアパートの住民たちは、コタローがなぜ1人暮らしをすることになったのか、過去に何を経験し、どんなことを学んできたのか、その苦労を垣間見るようになる。


 この漫画の多くは、児童虐待や育児放棄(ネグレクトともいう)の問題を扱っている。子どもに触れられずビニール手袋をつける母親や、知らない家のインターホンを押してしまう子ども。具体的な描写を通してその現実を伝えている。家の中のことは外からは見えにくく、子どもが犠牲になっていても問題が明らかになりにくい。中のことは外の人には関係ないと思われがちだし、被害者たる子どもは辛くなってもどうすればよいかを知らなかったり、そもそも深刻な問題に巻き込まれていると思わなかったりする。この作品は隠れた社会問題を見えるようにしているのである。そして、ある子どもに虫歯がとても多かったり、自然に学ぶはずの言葉を知らなかったりすれば、それは一つの「サイン」であると教えてくれてもいる。コタローは児童虐待やネグレクトに遭ってきた。周りの大人はそのことを少しずつ理解していく。

 コタローの過去を理解していくと、本人の目にはまったく異なる現実が映っているということも分かるようになるところがこの作品の要である。コタローは、言うまでもなく、被害者である。被害者であるにもかかわらず、自分のことを加害者だと思っているのである。ネグレクトと虐待について親を責める気持ちなどなく、むしろ自分がそういった状況を招いたと考えている。青田という探偵が、かつての自分をコタローに重ねながら、虐待される子どもの思考回路を解説している。「“親から愛されないのは…親から虐待を受けてしまうのは…”/“自分が無力でなんの取り柄もない存在だから…”[…]つまり悪いのは親ではなく…」、「“自分” だと」(第4巻「35日目★強くなりたい」)。「原因」を自分に見いだして自分を戒めるのは間違っているし、「原因」がなくなったところで、家族が元どおりになることはない。こんなことは周囲の大人にも読者にも明らかだ。けれども、自分を責めるその気持ちこそ、今のコタローの強い自律心と生きる活力を生み出してもいる。「わらわが弱き者でなければ、わらわの父上は “悪者” にならなかったはずぞ」。「ゆえにわらわが “強き者”になれば、/また父上と住めるのだ」。


 コタローを前にしたとき、まず見守るという判断ができるだろうか。助けてあげたいという善意で応援の言葉をかけ、大切に思っている親のことをうっかり否定してしまったりしないだろうか。家庭内での加害と被害の間には愛着と嫌悪、あるいは期待と落胆がまぜこぜにある。そのせいで同じことを繰り返したりするけれど、そこからコタローの活力も湧き出ている。見守るという行為には、物事を簡単に整理し、性急に解決しないだけの忍耐強さが要るのだろう。このかわいく不憫な子役に似た4歳児が、実は両親への思慕とそれゆえの後悔を強く抱いていることは、少しずつにしか明らかにならない。同じアパートの住人たちはコタローの不思議な言動についてあれこれ意見交換し、一方的で短絡的な判断は下さない。そういう時間の過ごし方は、実は難しいのかもしれない。


「…おい狩野。強くなることで父親とのことを解決できるのは間違いだって、お前も分かんだろ…」

「は、はい…だからその “間違い” に気づくその日までにすこしでもあいつには…」

「体と…あと心が強くなってほしいんす、/その現実(ショック)を乗り越えられるように」


過去を誤解し、両親を美化しすぎているとしても、それが今のコタローを支えている。そのことを理解している住人たちは、コタローの考えを尊重して接している。どんなふうに声をかければ、大切な親を否定せずに、コタロー自身の気持ちを楽にしてあげられるのだろうか。

 第2巻「20日目★ドッジコタロー」で、コタローは苦手なドッジボールを克服するため、狩野と公園で練習する。キャッチボールは会話と同じだ、ボールは言葉と同じだ、と、狩野が言うと、コタローはボールを投げずに転がすようになる。その脳裏に浮かんでいるのは、自分が描いた絵を見せても反応してくれなかった、母親の横顔である。「受ける気がない相手にボールを投げるのは、とてもつらいではないか」。太字になっているこの台詞は、断言するような強い口調で言われたらしい。

「……つらいかも…/…いや、つらかったかもしんねぇけど…」と、狩野は応答する。「投げなきゃ投げないぶん、何も伝わらんだろ。/…その、だから、…詳しくは知らんけど、/少しでも言葉(ルビ:ボール)を投げたんなら、返ってこなくてもちゃんと届いていたと思うぞ、俺は。」コタローの「つらい」という言葉を受けて、狩野は「つらかった(かも)」と過去形で言い直す。そうして、絶対的なこととして主張された「つらさ」は、特定の過去の、ある一場面での記憶にすぎないのではないかと問いかけているのだ。コタローは次の日から、思い切り力を込めてボールを投げられるようになる。


第3巻「40日目★相手を想えば」では、美月がコタローに、過去を捉え直すように説いている。美月は恋人の支配から逃げるため、アパートを引っ越すことになった。コタローは美月に、恋人を悪者にしないためにも、相手のことを表沙汰にしないで黙って引っ越すようにアドバイスをする。コタローは、自分が外に助けを求めたために、父親が悪者になったと後悔しているのだ。だが引越しの当日、美月は、恋人のことを警察に通報したとコタローたちに打ち明ける。そして美月はコタローに向かってこう言う。「ねえコタローちゃん、コタローちゃんがお父さんにしたことは、私は間違ってないと思うんだ…だってそれはお父さんとコタローちゃんのためになる行動だったと思うの。」狩野や美月といった、周囲の大人は、コタローの過去を否定せず、しかし異なる見方を提案しているのだ。過去の出来事について決めつけていたことをほぐし、新たな解釈を模索し、現在の考え方を修正していく。そうした探究の関係がコタローと大人たちのあいだに生まれているのだ。読者もまた、静かな一員としてその輪に入っているように思う。

 物語の中心にあるのは、過去をどのように解釈するか、その試行錯誤のプロセスである。さまざまな暴力や抑圧について、無関心やステレオタイプに疑問を投げかけ、辛い経験への意味づけをあれこれと検討する。親子という親密な関係に潜む暴力と抑圧の問題は、当事者どうしの我慢や思いやりが混ざり込んでいるために、たやすく解決・整理できない。そうであれば誰か弱い立場の人の奇行を目にしたとき、(強い立場の)大人の発想でしつけようとせずに、コタローを見守るご近所さんのように、心の状態や背景を想定しながら、一緒になってゆっくりと探究する態度を持つ必要があるのだろう。まるで暗闇に目が慣れるのを待つあいだのように、じっと見守る。そういった関係性の深まりを、この漫画は経験させてくれる。


<作品情報>

津村マミ『コタローは1人暮らし』、第1巻~第7巻、小学館、2015年〜2019年(https://www.shogakukan.co.jp/books/09187355


追記:

親密な関係における問題の複雑さを豊かに表現した作品として紹介したが、

最新刊において、コタローの母親を慈愛に満ちた人物として描いていることの問題点については、また改めて書き足したく思う。



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