辻本侑生
本書は、会津出身の民俗学者・地理学者、山口弥一郎(1902~2000)の評伝である。山口弥一郎は1933年の昭和三陸津波後に、被災地をフィールドワークして丹念にデータを集め、調査成果を『津浪と村』(1943年)等に残した研究者であり、その著作や論文は東日本大震災後、人文学を超えた幅広い分野で再評価されることとなった。こうした背景を踏まえつつ、本書は山口弥一郎の著作と膨大な旧蔵資料の分析によって、山口弥一郎の仕事を「津波研究」という枠を超えて捉え直し、今後の研究やフィールドワークの実践につなげることを企図したものである。
さて、本書のような学史的研究を若手のうちから手掛けるのは、比較的珍しいことかもしれないし、若手研究者による最初の仕事として、単独でのフィールドワークに基づくモノグラフが求められる傾向が強い最近では、あまり歓迎されないことかもしれない。そこで、冗長かつ個人的な話も含まれるが、何らかの参考になることを期待して、なぜ私が山口弥一郎の研究に取り組んだのか、経緯を記載しておきたいと思う。
山口弥一郎との出会いは、武蔵高校在学時、焼畑について調べていたことに始まる。高校2年生の時、(別にカリキュラム上は書く必要の全くない)自由研究論文の執筆に向け、日本の焼畑に関する文献をすべて集めようと意気込む中で、必然的に山口弥一郎の著作に出会うこととなった。そして高校3年生の卒業直前に東日本大震災が発生し、Twitter等で多くの研究者が山口の『津浪と村』に言及しているのを目にすることとなった。私が津波研究に取り組むようになったきっかけは別稿(辻本侑生2021「切実さと好奇心の狭間としての民俗学の可能性」『人文×社会』2)に詳述したため割愛するが、「焼畑」と「津波」という自身の二つのテーマにとって、山口弥一郎は非常に気になる存在となっていった。
山口弥一郎旧蔵資料に直接アプローチすることとなったのは、2013年の春、筑波大学2年生の時であった。山口弥一郎の残した資料があるのでは、と根拠もない思い付きであったと記憶しているが、まず出生地である会津美里町役場に電話で問い合わせたところ、磐梯町に資料が寄贈されていることをお教えいただいた。そこで磐梯町にお電話すると、未整理の段階であるが、閲覧しに来ても良い旨、ご回答をいただいた。その後、学部3年生に進級した2013年6月に磐梯町を訪れ、山口直筆のフィールドノートに初めて触れることとなったのである。
磐梯町を訪れた際、福島県立博物館民俗分野の担当者の方々も、山口弥一郎旧蔵資料の状況を見にいらしているとのお話を伺った。そこで、博物館ウェブサイトのフォームから、どなたが担当かわからないまま問い合わせたところ、丁寧にお返事を下さったのが、本書共著者である、内山大介さんであった。2013年12月10日、陸前高田からの帰路に会津若松に立ち寄って、内山さんにはじめてお目にかかった。この時はご挨拶にとどまったものの、内山さんとは、2014年10月に岩手県立大学で開催された日本民俗学会年会にて、懇親会後、盛岡駅で送迎バスを降りたところでばったり再会し、駅前の居酒屋でお互いの考える山口弥一郎の魅力について語り合うこととなった。これが本書成立の一番のきっかけだったのではないかと思っている。その後の経緯は、内山さんがあとがきに書かれている通りであり、2015年4月から横浜で会社員として勤務する傍ら、土日に博物館にお邪魔させていただき、非常に楽しい資料整理とディスカッションの時間を過ごすことができた。
それから6年以上時がたち、本書脱稿とほぼ同時期に、思いがけず弘前大学への転職が決まることとなった。終章でも指摘しているように山口弥一郎の中心的なフィールドは福島と岩手であるが、たびたび青森にも足を延ばしていたことが気になっていた。これまでと職場環境も地域も大きく異なる転職に迷いがないわけではなかったが、山口の足跡をさらに追いたいという思いにも背中を押され、決断することとなった。
本書の末尾に私が執筆している「山口弥一郎から引き継ぐべきこと」は、山口の仕事を批判的に捉えた部分であり、当事者や実践といった概念を持ち込んでいることから、論理の飛躍を感じられた読者もおられるかもしれないと想像する。この節の内容は、私自身がこれから研究・実践において取り組むべきことの整理であると同時に、2013年6月22日に東京大学東洋文化研究所で開催された第1回「新しい野の学問」研究会(とその後の懇親会)において、菅豊先生からいただいた問いかけへのリプライともなっている。このリプライに至るまでには、様々な試行錯誤があり、多くの方からご助言をいただいたが、特に折に触れてディスカッションにお付き合いくださった塚原伸治さんのお名前を挙げさせていただきたい。
ここまで記してきたことを読み返してみると、若手研究者でありながら学史的研究に熱中できた背景には、現在の大学院における研究者養成の仕組みから離れて研究に取り組むことができたということももちろんあるが、他方で、学会や研究会という仕組みの中で多くの方々と出会えたことの意味も大きかったと思う(そしてこのこと自体が、在野とアカデミアを往復していた山口弥一郎の立場性ともつながる気もする)。このささやかな本が、さらなる出会いにつながることを期待して、若手研究者の集う場である北村荘の本棚にも1冊置かせていただきます。ぜひ手に取っていただければ幸いです。
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