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堀之内の記憶(地域研究コラム①)

更新日:2022年2月19日

辻本侑生



 「探求→究する家」の活動拠点、北村荘の立地する一帯は、かつて「堀之内」と呼ばれていた。


 19世紀前半にまとめられた地理書である『新編武蔵国風土記稿』第12巻には、「新田堀之内村ハ元禄以前梶原堀之内村ヨリ分郷ス」との記載がある(内務省地理局1884『新編武蔵国風土記稿』)。梶原堀之内村は、現在の北区上中里、都電荒川線の梶原停留所あたりのことであり、元禄期(1688~1704年)以前に、この梶原堀之内村から分かれて成立したのが新田堀之内村であった。


 『新編武蔵国風土記稿』には、当時の新田堀之内村は30戸ほどで、村の鎮守として稲荷社があったとの記載がある。この稲荷社は、現在の子安稲荷神社にあたるものであり、『豊島風土記』が引用している神社の由緒書によれば、「天正ノ年ヨリ已前」、すなわち1570年代前後に創建されている(豊島区1971『豊島風土記』、p139)。さらに、1715年に堀之内村で疫病が発生した際、子安稲荷神社に祈願すると災厄を免れたとされ、御礼として堀之内村民は毎年9月29日に祭礼を行うようになった(同書p140)。これが現在の子安稲荷神社の例大祭につながっている。


 家々と鎮守から成る小さな「村」であった堀之内では、どのような暮らしが営まれていたのだろうか。『豊島区民俗資料調査報告書』(豊島区史編纂委員会、1977)には、明治時代生まれの人に、この周辺の関東大震災以前の暮らしを聞き取った記録が収録されている。「明治末期まで火事が発生すると50軒程の家々で33円を出し合った」(同書p90)、「月参講(ツキサンコウ)と称し、富士山(8月1日)、古峯山(6月1~3日)、三峯山・大山(夏)、成田山(4月)等へ代参に行った」(同書p101)など、断片的な記述であるが、小さなコミュニティで助け合ったり、信仰をともにしたりしていたことがうかがえる。


 明治期の町村制施行により、堀之内は西巣鴨町大字堀之内となった。1925年の国勢調査によれば大字堀之内の世帯数は1,732戸であり(東京府北豊島郡西巣鴨町役場編1932『西巣鴨町誌』、p17)、江戸時代の約60倍にまで増えている。1932年10月には西巣鴨町が豊島区に編入され、堀之内も東京市の一部となった。そして1934年には東武堀之内駅(現在の北池袋駅)が開業している。


 1923年の関東大震災後、東京市への編入、戦争、高度経済成長を経て、上池袋のまちはどのように変化していったのだろうか。そして、どのように北村荘のような木賃住宅が立ち並んでいったのだろうか。断片的な資料と、地域の人びとの記憶をつなぎ合わせながら、北村荘周辺の歴史を追いかけていこう。



「堀之内」の町名は1969年まで存続していた。

(子安稲荷神社内の石碑より。2021年1月10日、辻本撮影)



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